「公文書問題」を読み返して強く思ったこと

瀬畑源さんの「公文書問題」を再読してみました。1回目は2018年の7月に読んでいます。そのことを覚えていてくれた人がいて、「その時の資料はないのか」と問われて、要約をしてあったのですが、手書きだったので、その手書き要約を再読しながらWordにまとめてみることで、あらためて「なるほど」と得心いたしました。

本は4部構成になっており、全部で18章にわたって書かれています。

結論と言うか、ポイントは日本の官僚は戦前からマインドは変わらず「由らしむべし、知らしむべからず」をモットーにしているということです。このモットーに一番なじむのが、長年連れ添ってきた「自由民主党」だということが冒頭に書かれています。

この 「由らしむべし、知らしむべからず」 は、普通に読めば「民衆は権力者に従わせればよい。なまじに情報などを与える必要はない」となりますが、「論語」ではそう意味ではないと、あっちこっちで解説されています。

しかし「べからず」といえば「すべきではない」と解釈してしまってもしかたがないような表現に思います。

子曰く、「民可使由之,不可使知之。」が出典のようですが、「使」のところの解釈になりそうですが孔子様が、自民党や官僚に利することを言うわけもなく、訓読の仕方が間違っているような気もします。

詳しい人の解釈としては「民衆を権力で従わせることはたやすいが、その原因や理由を真に理解させることは難しい」という趣旨だと、解釈されています。孔子先生も、曲解を生むような書き方をしなければよかったのにと思います。

時の総理大臣

確かに、外交や防衛、公安などでは、軽々に情報を公開するべきではないと思いますが、主権者である国民と、権力者である内閣との関係をどのように考えるかが「公文書」と「民主主義」との兼ね合いになります。

少なくとも「特定秘密」や「立法文書」は、アーカイブにして30年後か50年後に公開するべき性質の文書じゃないでしょうか。

現実に森友学園問題では決裁文書を改ざんするという、国民に唾するような事態が出来しましたが、検察も内部調査でも「お咎めなし」となっています。

法的には刑法155条の〈公文書偽造罪〉と刑法156条の〈虚偽公文書作成罪〉があるようですが、詳しい話は個別に調べてみてください。

本の中でも、「なるほど」と感じたのが「第2部 特定秘密という公共の情報を考える」と言う部分です。

特定秘密保護法」が2013年12月6日に自民党によって強行採決されています。これって、政治家にとって何のメリットがある法律なのでしょうか?

国会に「情報監視審査会」が置かれていて、審査会会長が行政機関に対して質問をしても「答弁を差し控える」と答える行政機関が多かったそうです。

仮に、特定秘密に指定された文書に対して情報公開訴訟が起きても裁判所にすら当該文書を見せる仕組みが認めていないため訴訟が成立しないのだそうです。

会計検査院は憲法90条に定められた国家機関であり決算報告だけでなく証拠書類を請求されたら必ず応じなければならないとしているそうですが、おそらく「安全保障に著しい支障を及ぼす恐れがある」として提出を拒むことと思われます。

軍や警察の暴走は第三者機関の介入がなされないところで予算の裏付けがあるから暴走することができたという戦前の歴史を繰り返す法体系になっています。安部首相(当時)や法務大臣は、どこまで法律の中身を知ったうえで強行採決の必要性を考えたのかは不明ですが、官僚のタナゴコロの中での行動でしかないだろうことは想像に難くありません。

衆議院情報監視審査会による2017年の報告書で、特定秘密指定の443件中166件に文書が存在しなかったのだそうですが、そのことについての官僚の答弁は、「とりあえず指定だけをした」「記憶に残されている」としたが、特定秘密のまま文書がなくなるということはあってはならないことじゃないでしょうか。

また、特定秘密文書の保存期間が、秘密指定よりも短いことはあるのかという野党の質問に対して、「廃棄することはある」と答えていますが、理屈の上では内閣総理大臣の同意が必要であるはずで、よって「恣意的な廃棄ではない」と強弁しています。

防衛省、公安調査庁は、後に自分たちの行動を検証させないようにしている役所で、国民に対する説明責任などは考えとして持っていないと著者は、いささか怒っているような書き方となっています。

公文書をきちんと作成し、管理し、情報公開請求に応じていくことこそが民主主義にとって不可欠であり、政策決定過程の透明性から国民による政治への関心がたかっていくことが民主主義の理想である と締めくくっていますが、現実は、真逆の方向に進んでいます。

結論としては、日本の民主主義は、政治的に実現されているわけではなく、官僚が決める範囲内で実現されていることになります。そして、その範囲は、官僚の正義と良心で決めているわけではなく、限度を超えて明るみに出ることで叩かれないように細心の注意を払っている範囲の中での民主主義なのだと痛感しました。

願わくば「政治」の正常化しかないわけですが、選挙と言う茶番で政治家を選ぶ手法を改良しない限り、政治の低劣化を食い止める手段はきっとないのが現実のような気がします。