01.「文書管理」の周辺知識
日本における文書管理の歴史は、どのような経緯をたどってきたのでしょうか、少し調べてみました。
天智天皇の時代の668年に「近江令」が制定されたとのことです。
ただし、原文は残っておらず「存在した」という説と「存在しなかった」という説があって、どちらにしても新たな証拠が出ない限り結論も出ません。
689年には「飛鳥浄御原令」が出されますが、これも現存していません。
これは天智天皇の皇子である大友皇子から政権を奪取した天武天皇が主体になって法整備をしたとのことですが、制定前に没することとなり持統天皇と草壁皇子とで継承したとのことですが草壁皇子も急死してしまいます。
この法律を継承して制定したのが701年の「大宝律令」になります。
この法律も現存していないとのことですが藤原不比等が主体的活躍をしたとされています。
話は横にそれますが不比等には皇胤説があります。
父の鎌足に「我はもや 安見児得たり 皆人の 得かてにすといふ 安見児得たり」と言う万葉歌があるのと、「大鏡」に天智天皇が妊娠していた女御を鎌足に下げ渡して「女児なら朕のもの」としたものの男児が生まれたので、その子が不比等になるという話。
嘘か本当かはわかりませんが、元明天皇の女官であった橘美千代は美努王と離別して不比等と再婚していることなどから朝廷などへの関係性が密になっていくことなどにも通じるものはある気がします。
大宝律令を概ね継承しているとされる「養老律令」が757年に施行されています。この養老律令をまとめたのが藤原仲麻呂です。
文書管理の歴史で肝心なのが、この「養老律令」になります。
この養老律令の21番目にある「公式令(くしきりょう)」は89の条文で構成さています。
公文書管理に関する部分を取り上げると、82条の「案成」と83条の「文案」が該当します。
案成:
草案・本案を作成、また他司から来た公文書を記録・成巻したならば、つぶさに収蔵目録を箇条書きに記録すること。
その上端には、何年何月に何という司が納めた案目と記すこと。
15日ごとに庫に納めて終了させること。
詔勅の目録は、別所に安置すること。
文案:
文案について、詔・勅・奏の案、及び、考案、補官・解官の案、争訟があったときの判断文・田(田籍・田図)・良賎(良賎の別を判定したもの)・市估(市司の作成した貨物時価簿)の案 などの類は、永久に保存すること。
それ以外は、年ごとに検討・選択して、3年に1度廃棄すること。
つぶさに廃棄したものの記録目録を作ること。
保存を延長する場合は、事情を量って保管収納すること。
これが、日本の文書管理の原点の法律で、いまから1265年も前のことです。
アメリカで公文書保存の必要性は1774年の第一議会において議論されたのだそうですから、それよりも千年もまえに日本では法制化していたわけです。
といっても、日本の文書管理の原点は「前例主義」であり、アメリカの文書管理の原点は「民主主義」を守るためであったわけですから、目的は大きく異なりますが「管理」と言う観点からは、お互いにそうしなければならない必要があったということでしょう。
実は、日本で「公文書管理法」が制定されたのは2009年のことですから、アメリカから遅れること235年と言うことになります。
養老律令からは1252年目のことでした。