「文書管理の歴史を紐解く」という展示

令和3年度第1回企画展「文書管理の歴史を紐解く-古代~近世の文書の管理・保存・利用-」という展示を国立公文書館でやっていると教えてもらい、展示の見どころを企画担当の人が解説してくれるというので申し込みました。

30人限定だそうで、昨日(2021.7.14)メールを出したところ、「了」の返信をもらったので28日に公文書館へ行ってきます。

公文書館と言うと、海外(とくにアメリカ)では民主主義の根幹をなす公文書を分類整理して管理している施設のことで、アメリカでは国立公文書館法が1810年以制定されています。1810年というと日本では将軍が家斉(11代将軍)で元号が「文化」といった時代です。それから文政、天保、弘化、嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応、明治でやっと文明が開化します。

公文書の必要性が認識されたのはアメリカではイギリスから独立する1776年よりも前の「1744年」の第一議会で議論されているそうです。日本では吉宗が将軍の時です。

なぜ、公文書の管理・保存が民主主義にとって必要かというと、時の権力者が決定し、実行したことの意味(または意義)が正当であることを国民に対して証明できるようにすることが不可欠であるという考えに基づいています。

権力は長期化すれば必ず腐敗するいう、歴史から学んだことを繰り返さないために大統領という最高権力者には2期までで最大8年を上限としており、その上限は生涯にわたっての制約としているのも、驕慢・腐敗させないため手段としているわけです。

こうした制限を設けていない国には正当な「民主主義」が根付いていないと言っても過言ではありません。

公的な文書(記録)の管理とは、民主主義を担保するものであるわけで、公開できない、公開しない、廃棄した、挙げ句には決裁文書を改ざんした というような次元の国には、やはり正当な「民主主義」が根付いていないと言えるでしょう。

たまたま、amazonのプライムで何気なく見た映画に「ザ・リスト」があります。

この映画は、9.11のテロを受けてアメリカがグアンタナモ収容所で行ったCIAによる捕虜の拷問を暴いたレポートを公表するか否かの攻防をドラマにしたものです。

拷問で得た情報は、あらかじめCIAが察知していたか、価値のない情報がほとんどであったにもかかわらずCIAは、この拷問の正当性を主張し、情報の公開を拒んだ。

拷問をした理由は、「捕虜の苦痛より、アメリカ国民の生命を守ることが優先する」という考えに基づいていました。そして、100人を超える捕虜への拷問をしたにもかかわらず価値ある情報は得られなかった。

それをつぶさに分析したレポートを公開するかが争点になります。仮に公開すればアルカイダから報復を受け、9.11のようなテロが再び起きるだろうし、現在、アルカイダの捕虜になっているアメリカ兵への報復もあるという意見もありました。

しかし、「CIAはアメリカの歴史に汚点を残した。アメリカは悪は悪だと認める度量を持つ。自らの間違いから学ぶ自信を持つ」として公開することを決めます。

この調査を依頼された主人公(DANIEL J. Jones)が、CIAの窓のない部屋でグアンタナモ収容所における拷問に関する情報のみにアクセスすることを許されて630万ページの情報を調べて500ページの「レポート」を作るのです。

公開したくない情報であっても「630万ページ」分の情報がすべて保存されていることには新鮮な驚きを隠せませんでした。

これが民主主義における公文書管理の基本であるということです。政権にとっていいことも悪いことも、大統領がヨタ飛ばすTwitterでもすべてを記録し、基本は公開すること。その時点で公開できなくても後世において評価ができるように記録を残すことが民主主義の基盤であるということです。

この映画を見ていいたら「ペンタゴン・ペーパーズ」が気になってamazonプライムで調べたら400円だそうですのでGEOに行ってDVDの旧作を借りました。

この映画の内容も似たようなもので、ベトナム戦争でアメリカは負けるとわかっていながら戦争を継続した事実を記録した報告文書をめぐる報道の裁判の話である。

始めたのはルーズベルトで、ケネディ、ジョンソン、ニクソンが継続させたのですが、負けると分析した文書は公文書で、その文書を作った人が持ち出していて、ニューヨーク・タイムズに掲載されて裁判になります。

士気に係ること、ベトナム戦争で死んだ兵士の死が遺族に与える影響、次なる戦争においても同様の漏洩があることの国家的損失などを勘案(要するに国益に敵わないという見解)すると、「ペンタゴン・ペーパーズ」を公開するべきではないとする判決もあったけれど、連邦最高裁で「公開したこと」が勝訴しています。

映画では、ニューヨーク・タイムズが漏洩情報の公開を差し止められた間隙を縫ってワシントン・ポストが公開します。そこにドラマが隠されていてトム・ハンクスとメリル・ストリープの熱演があるのですが、そのドラマ性はどうでもよくて、政権が邪悪だったとして、情報を隠蔽・廃棄したり改ざんしたりして、メディアを操作したらどうなるのかを示しています。

公文書とは官僚のメモから議事録、メールのやり取りすべてを記録しなければ、後世において正しい分析もできません。官僚がメモを取るのも私的な時間ではなく公務の一環ですから、彼らのメモもノートも公文書として保存すべきであり、複数人が集まって議論なり会議なりをすれば議事録は必ず残すべきです。

公文書(記録)管理とは、権力の腐敗と暴走を抑える民主主義の基本であり基盤であることを理解の上、実践しているかが要になります。

さて、7月28日に初めて国立公文書館へ行ってきますが、「古代~近世の文書の管理・保存・利用」もさることながら、民主主義の根幹を担保している施設であるのか探ってこようと思っています。