「荘子」という名前を聞いたことはあっても、実際に読んだことがない人は多いと思います。難しい思想書だと身構えてしまい、手に取らずに終わってしまう方も少なくありません。

しかし、荘子がいわんとすることは、堅苦しい教訓の書ではなく、発想の自由さにあふれた作品です。荘子が残した文字数は膨大な量がありますが、一貫して通底している主張は、実は非常に簡明なことだと考えています。

この記事では、荘子がどんな本なのか、その魅力をやさしく紹介していきます。

荘子とは、どんな人物が書いた本なのか

書籍の「荘子」は、中国の戦国時代に生きた思想家、荘周によって書かれたとされる書物です。「荘周」とは荘子の本名で、「子」をつけることで尊称となります。

一般に孔子と老子は中国の春秋時代とされ、荘子と孟子は、戦国時代に活躍しました。春秋時代と戦国時代では、かなり異なる時代背景となり、それぞれがその時代背景を前提にして思想的影響を与えてきました。

儒家が「正しい行い」や「社会の秩序」を重んじたのに対し、荘子は違う道を歩んだとされます。荘子が大切にしたのは、人間が作った価値観にとらわれない、自然のままの生き方です。

出世や名誉を追い求めることに、あまり意味を見出していなかったとも言われています。実際、彼自身も高い官職への誘いを断り、自由な暮らしを選んだという逸話が残っています。

そうした生き方そのものが、荘子という書物の思想を体現しているだけでなく、この混とんとした現代にも通じていると言えるでしょう。

「無用の用」という、逆転の発想

荘子の魅力を語るうえで欠かせないのが、「無用の用」という有名な考え方です。役に立たないと思われることは一つの価値的視点での評価にすぎません。価値的視点を変えると、実は大きな価値があるという見方をしようという発想です。

たとえば、まっすぐに育たない木は、材木として使えないため切り倒されずに残ります。その逆に、まっすぐで立派な期から切り倒されていきます。軍隊なども似たようなもので頑健な若者から率先して戦場に送り出されてしまいます。そのようなことを皮相的にとらえてもいます。結果として、曲がりくねって瘤だらけの木は長い年月を生き延び、大きく育つことができるというわけです。

一方的な価値観から「役に立つ」ことばかりを追い求める社会全般に、静かな疑問を投げかける寓話です。現代社会でも、企業にとっての効率や成果ばかりが重視される場面は数多くあります。

そんな中で、この考え方に触れると、少し違った角度から物事を見られるようになります。「役に立たなくても、それでいい」と思えるだけで、気持ちが軽くなる人も多いはずです。

胡蝶の夢が問いかけるもの

荘子の中でも、特に有名なエピソードが「胡蝶の夢」と呼ばれる話です。荘子が夢の中で蝶になり、自由に飛び回りながら寝ている荘子を見ているという場面から始まります。

目が覚めたとき、自分が蝶になった夢を見ていた本人であることと、夢の中の蝶が見ている自分とで、何が本質的に違うのだろうと考えるのです。

現実と観念の本質的意味を問い直す、とても哲学的なエピソードです。何が本質なのか、という問いに、明確な答えは示されません。

むしろ、答えを急がずに問い自体を楽しむような姿勢こそが、荘子らしさだといえます。このエピソードに触れると、日常の「当たり前」を少し疑ってみたくなるはずです。

人と比べない、自分のものさしで生きる

大きな鳥と小さな鳥を比べる、有名なたとえ話も登場します。何か月も準備をして何万キロも飛んでいく大きな鳥(鵬)を見て、小さな鳥が「俺たちは思いついたらさっと行って、用が済めばさっとかえって来られる」と揶揄する場面です。

そのことを荘子は「小知は大知に及ばず」とも表現しています。つまり、狭い世界での「知」で、大きな世界の「知」を図ることはできないという意味です。

人の常として、他と比較して優劣をつける発想にはあまり意味がないという視点だといえます。現代でも、SNSなどを通じて他人と自分を比べ「優劣」をつけ、テレビやYouTubeなどで「論破」などともてはやしていますが「優」は「劣」から生まれ、「劣」は「優」から生まれることを戒めてもいます。

自分だけのものさしで生きるという姿勢は、今の時代にこそ響く考え方です。荘子の寓話で有名な「朝三暮四」などもいろいろな解説がありますが、猿の価値観と人間の価値観の違いを考えれば、同じ7つの栃の実でも意味が違ってくることを考えなければいけないということを伝えていると受け止めています。

「無為自然」という、力を抜く生き方

荘子の思想を語るうえで、「無為自然」という言葉も欠かせないとされます。無理に何かをコントロールしようとせず、自然の流れに身を任せるという考え方です。

それは理想にすぎるのではないかと考えています。

むしろ、膨大な量の文字を読み進めているうちに気になる文字がありました。あっちこっちで使われています。それが「適」という文字です。これを「かなう」と訓読します。

それにもう一文字を付け加えるなら「特」になります。これを「もちまえ」と訓読します。「特別」という意味ではなく「固有の性質」であるという意味として使用しています。

つまり、荘子は人間として生まれた以上「持前に適う生き方をしよう」と、二千年以上前から説き続けていたのです。

難しく考えずに、物語として楽しんでみる

荘子は思想書として紹介されることが多く、身構えてしまう方も多いと思います。漢文を解説する所も少なくありませんが、主たる目的もなく漢文を読むことは大変な労力を強いられます。

かたや、トピカルな寓話を取り上げておもしろおかしく解説するような書も少なくありませんが、それでは荘子の本質を見失ってしまいます。

また、どういうわけか自然に生きることを推進しているのに、自然に生きるいことのみに「道」が開けているような書き方になっている部分があったりしますが、ポイントは「持前に適う生き方」を常に意識することに集約することができます。

なぜなら、「胡蝶の夢」で語っているように、「自分の本質」とは何かという問いに尽きるわけで、そこで重要な役割を持つのが「観念」ということじゃないかと考えています。

文学作品や、こうした思想の書を読む場合、重要なことを知識を得ようとすることではなく、読みながら自己の考えと照らし合わせながら「考える」ことだと思います。

荘子と出会うことで、自己の考えと対峙させて思考を高めることができれば、荘子冥利に尽きるのではないでしょうか。

まとめ:荘子は、心を軽くしてくれる一冊

荘子は、一貫した主張で書かれているようですが、唐突に抹香臭い話になったりもします。

そもそも、「是」があれば「否」があるのが世の常であることを説き、絶対的真理でないことを議論しても遺恨が残ることはあっても双方共に解決できることは少ないと説きます。

それからすれば、荘子が言うことだって絶対的真理でない限り、荘子の「テーゼ」には、同時に「アンチテーゼ」も生まれるのも当然のことだろうと思います。

では「思想」とか「哲学」とな、何のためにあるのでしょうか。それは知識として摂取することよりも、自分の言葉で咀嚼し、自分なりに考えることに価値があるのだと思います。

社会生活をする以上、効率や成果を求めらることは回避できませんが自分の持前を遊離してまで地位や権力を求めるようになると、自分という本質をも身内内勝ちになってしまいます。

難しく考えず、まずは気になる寓話を一つ読んで、自分なりに考えてみることから始めてみてください。きっと、肩の力がふっと抜けるような、新しい発見があるはずです。