ドイツ人の見た「東京オリンピック」

文春オンラインの記事を見て、「なるほど」と合点したことがいくつもあったので、そこを中心に自分の意見なども添えてみようと思います。

詳細は原文を参考にしてください。

https://bunshun.jp/articles/-/47927

https://bunshun.jp/articles/-/48087

書いているのは「マライ・メントライン」さんです。

「祭り」は、始まる前に完全に終わってしまった

今回の東京五輪の主役は「世界から来るはずの観客だった!」

マライさんは、東京五輪の取材を重ねる中で「東京五輪のコア」は何のなのかというイメージに行きつき考えた結果、オリンピックに主役は戦略的に考えてみれば「世界から来る観客」だという結論に達した。

観光客がいなければ主要メディア以外にSNS拡散が見込めない。

祭り」によって膨大な観光客を、リピーター客を生み、その情報拡散によって世界の人々に「日本に、東京に行ってみたい!」というムードを醸成するという戦略は、無観客によって始まる前に終わってしまっている。

誘致に関わった権力層にとっては、五輪における競技そのものはオマケで、IOCの靴の裏を舐めながらもインバウンドで一儲けを企んだのに、残念な結果となってしまった。

結果として、IOCの五輪貴族、無能の限りを尽くした五輪役員、大臣閣僚、利権にぶらさがる連中が悪目立ちしたのは、せめてもの罪滅ぼしであった。

東京五輪関係のコンテンツに「コロナが落ち着いたら東京へ行ってみたい!」と感じさせる何かがあったか

東京の魅力」は内外にアピールされていたかといえば、かなり厳しい。

開会式の演出はこのへんの真価がさりげなく問われる場面だったはずだが目的は達成されたのかは微妙。クリエイター的と言うよりは広告代理店的センスが随所に見られた。

文化的本物の競演が相乗効果を生む内容にしなければ、なにが「東京」なのかの発信が欠如してしまう。「お上」があまり頼りにならなさそう、ということが図らずも今回あからさまになってしまったので、お上に頼らない方法で自ら策を練らなければならない。

日本は今後、昭和や平成の時代以上に「文化」で上手く商売をしてメシを食っていかねばならないから。

オリンピックの主客は観客

4兆円もお金をかける理由は、アスリートファーストではないことは確か。

スポーツの祭典としてはやったほうがいいのは当たり前として「興行」としてはかけた金以上の効果があったのか。

海老蔵の「」をみて東京へいってみて歌舞伎が見たいと思うか。

閉会式は解説のしようがなかった。

しかし、今回の東京オリンピックはマイナスのイメージになってしまったのかというとそうでもない。

なぜなら、マイナスというインパクトもなかった。

興業とすればプラスでもマイナスでもなく、単に4兆円かけた「」だった。

メダルを取るのは国ではなくアスリート本人

報道は日本にいれば日本人のメダル取得競技ばかりを流している。これは、ドイツも同じようなもの。

国籍はどうでもよく、オリンピック全体の問題。

日本では「うちの会社」という言い方をするがドイツではそういう言い方はしない。

組織に対しては公平に仕事をするが、個人として考えたことは個人として自由に発信する。

そのことに組織が介入する権利はない。

ドイツでオリンピックを開催するか

市民投票で否決された。

開催費用をかける価値がない。

国際イベントに積極的なのは世界に何かをアピールして儲けようとする魂胆があるからであって、ドイツ人は現状に満足しているのでわざわざ大金を使う意義があるとは思っていない。

その逆が中国。

日本は、観光地としてだけではなく文化としても世界に誇れるものがたくさんあるのに今回のオリンピックでそのことが世界に向けて発信できていなかった。

「外国人選手が日本のホスピタリティに大感激!」みたいな日本語記事が量産されて、ひたすら日本人向けアピールが繰り返される。

このように「内向きのアゲ」をしていること自体に病巣を抱えている。

感想

よその国の人の意見は、違う視点の気付きを与えてくれます。

なぜ、このような国際イベントを日本に誘致したのか? 「お・も・て・な・し」を見せたかったからだけではないはず。

てっきり、土建業者と結託している政治家が飛行場や港湾や道路は作りまくったので、次なる手としてイベント(オリンピックや万博や、果ては賭博場)のような大金を国費で投入するイベントが欲しいからだけと思っていました。

それは内向きにはある論理ですが、外向きにはインバウンドの呼び水を企んでいたわけですね。

どっちにしても政治の匂いがしますが、そのフロントではアスリートの活躍が感動を呼ぶという、二重構造になっており、外国の人は巧みな収益構造を作るものだと感心します。

願わくば、「IOCの靴の裏を舐めながらも彼らの上前を撥ねるような巧みさ」が欲しかったと思います。

やはり、「コロナ禍」という非常事態においての開催は、無理筋だったような気がしています。コロナを克服したとWHOが宣言するまでは世界は、大規模イベントを自粛することを前提にして、はやく取り戻すために何をするのが最良かに取り組むべきだったことは間違いのないところです。

自己の死が政治の無策だとするなら、あまりに無念ではないでしょうか。

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