「枕草子のたくらみ」を読むことで

読んでみて近年になく面白い本でした。

学校で習う歴史とはファクトの時系列の羅列です。時系列の羅列から、相互の因果関係などを考察しながら歴史への理解を深めるような学習を、学生時代にはさせられてきました。

歴史文学は歴史とは異なりファクトよりは、そこに描かれる情景や人間模様に重きを置き、どういう人間たちがどのように関わりどのような感情を持って生きたかを描くことに主眼が置かれているのが一般です。

枕草子」といえば「春はあけぼの」という具合で、純粋な文学の世界が描かれているものと合点していましたが、主人公は藤原定子で脇役が一条天皇という、千年前に実在した人間たちが描く実際の人間模様であって、文学的な装飾も含めて歴史そのものでもあることに認識を新たにせざるをえませんした。

つまり、枕草子は「ドキュメンタリー」ということです。登場人物は全て実在しています。

背景の概説

まず、藤原定子のポジションの説明。

主人公の藤原定子は、道隆の長女。道隆は兼家の嫡子。

兼家は道隆の妹の詮子を円融天皇の后とすることで一条天皇が生まれる。

この一条天皇の后になるのが藤原定子。数え14歳の春(990年)に、3歳年下の一条天皇に入内。つまり、13歳の妻と10歳の夫と言う関係。

この藤原定子の女房になる(993年)のが清少納言。兄の伊周が紙を持ってくる。

半分は一条天皇に献上し帝は「史記」を書写させるとのこと。

で、定子が清少納言に何にするかを尋ねると「枕にでもしましょう」と答えると、定子は紙を清少納言にやること(さらば得よ)にする。

当時の紙は、今と違って非常に高価であった時代のこと。

著者の結論は、枕草子は清少納言による藤原定子の鎮魂の書であったということ。

定子の父・道隆が死去することで定子および兄の伊周の人生は暗転していく。

その代わりに運が開けてくるのが道長で、道長の長女の彰子を一条天皇に嫁がせることで二后が同時に存在することとなり、定子が生んだ第一皇子は天皇になれず、彰子が生んだ第二皇子が後一条天皇となる。

994年のこと

定子が色紙を女房達に渡して「思いついた古歌を書くように」と突然言い出す。

年経れば よはひは老いぬ しかはあれど をし見れば 物思ひもなし

この歌は、藤原良房が娘の明子を「花」に見立てて詠んだ歌。清少納言は一文字を変えて

年経れば よはひは老いぬ しかはあれど をし見れば 物思ひもなし

と書いて定子に出した。

藤原定子14歳、一条天皇11歳、清少納言24歳(推定)のこと。

藤原明子は15歳で文徳天皇に嫁ぐ。文徳天皇の母は藤原冬嗣の長女・順子で、明子は文徳天皇との間に清和天皇を生む。

清和天皇には藤原基経の同母妹の藤原高子が嫁ぎ、陽成天皇を生むが基経と高子の折り合いが悪くて基経は陽成天皇を廃帝にして文徳の兄弟の光孝天皇を立てることになりますが、本筋から外れるので深追いはやめておきますが、ちょっとだけ。

光孝天皇の息子は、宇多天皇になり、その息子が醍醐天皇になります。宇多天皇の女御の一人が藤原胤子ですが、彼女は藤原高藤の娘です。ここにドラマがあり「今昔物語」にも「大鏡」にも書かれていますが、本当の話なら考えられないような話なのですが、胤子の実家が勧修寺になり、醍醐天皇陵が勧修寺のすぐ近くにあるので、細かな話は除いて、ほぼ本当の話なのだろうとは思います。

かいつまむと、高藤が鷹狩りに行く。雨が降ってきたので近くの家で雨宿りをする。そこにいた娘と契る。何人か経って高藤がその家に行くと契った相手に女の子がいた。その母と娘を都に連れ帰り、宇多天皇の女御になった胤子として醍醐天皇を生むという話です。

実際は宇多天皇が臣籍降下していた時のことでしたが、急転直下、皇族に復帰することとなり醍醐天皇となる皇子を生むことになったわけです。

藤原伊周

清少納言は伊周に会ったのは993年で、定子のところに出仕した翌日のことだった。

伊周が定子のところに来て、

雪のいたく降り侍りつれば、おぼつかなさになむと申し給ふ。道もなしと思ひつるにいかで

というと、14歳の定子は、うち笑ひ給ひて

あはれと

と答える。

この兄妹会話は、

山里は 雪降り積みて 道もなし 今日来む人を あはれとは見む

と言う和歌を前提に会話をしているということ。

兄の問いかけに即答できる14歳の定子。

兄の伊周は、本来であれば父・道隆が死去すれば伊周が関白になるはずであったものの、一条天皇の采配で関白が道兼、そして道長へとなることで、道隆系は失脚していく。

その原因は伊周にも定子にもあるとは思うものの、歴史とはそういうもののようです。

山吹の花、一重

伊周が弟と事件を起こす。

その事件を藤原斉信が道長に通報する。斉信は道長にすり寄っている人物であり、かつ、清少納言にも言い寄っていた。

この事件をきっかけにして清少納言は斉信と距離を置くことにするが、斉信は道長サイドに寝返ることを勧めに来る。

定子付きの女房達は、清少納言が道長に寝返ると思っていたこともあって、清少納言は嫌気が差して出仕をせず自宅に籠っていた。

定子からはしばしば「まゐれ」と言ってくるが無視をしていた。

ある日、定子から使いがくる。文は無く山吹の花びらが一重、紙に包まれており、その紙に「言はで思ふぞ」と書かれていた。

山吹色」は「クチナシ」の実をつかったことから「山吹」は「クチナシ」と言う意味で使われていた。

心には 下ゆく水の わきかえり 言はで思ふぞ 言ふにまされる

「心には湧き水のような思いがある。言葉には出す気はない。しかし、言葉に出すよりもずっと深い気持ちでいる」

つまりはいっさい弁解しない清少納言の無言を、定子はちゃんと受け止めているということを山吹の花一重で伝えてくる。受けるほうも、その意図が分かる。

平安時代の文化の真骨頂のようなエピソード。

藤原行成

藤原行成は三蹟と言われる能書家で、現存する書のほとんどは国宝。

伊周にとっての漢文は教養であったが、行成にとっての漢文は自分の考えそのものであった。

行成は定子の死後(1000年)、遺児の敦康親王の別当として親王を支えた。

やり取りからして行成は清少納言を気に入っていたと思われるし、清少納言にとっても悪い気はしていなかったように思う。

道長の焦り

道長は長女の彰子を一条天皇に輿入れさせるが、この時点で彰子は12歳で、男児を生むかもわからなかった。

とりあえず、定子の遺児である敦康親王を彰子が引き取るものの、彰子が男児を生んだことで道長は第一皇子である敦康親王を排除して、晴れて彰子が生んだ第二皇子である敦成親王が三条天皇の皇太子となり後一条天皇になる。

辞世

枕草子では定子の死については一切触れていない。

定子は1001年に第三児を生んだ日に死去する。

死を予感しており帳の紐に辞世を3句結び付けており、一条天皇に見せるようにと添え書きがされていた。

夜もすがら 契りしことを 忘れずは 恋ひむ涙の 色ぞよかしき
知る人も なき別れ路に 今はとて 心細くも 急ぎ立つかな
煙とも 雲ともならぬ 身なれど 草葉の露を それとながめよ

藤原道長は定子が死んだ当日、怨霊を幻視した。

一条天皇は心が張り裂け、取り繕うことができないほど悲しんだ。

とはいえ、ちゃっかり彰子との間に子をなしている、、、。

感想

平安時代とは日本の文化で最高潮に達した時代であったと思います。

それを支えたのは貴族・皇族と言う、食うに困らず、かつ、競って古典や漢文を勉強することがステータスであった文化人がいたことを上げる事ができます。

藤原と言う一族の繁栄は、どの程度文化に寄与したのかは不明だけれど、権力を集中させ、藤原の後ろ盾がなければ天皇でさえ行き詰まるような力の持ち方が許されたのは異常とも言える事態でもありました。

もっともっと藤原氏のことが知りたくて「大鏡」を読みました。と言っても、肝心な道長までには至っていませんが、そこには歴史として羅列される名前だけではなく、生きた人間としてのエピソードが書かれていて、平安時代への理解が多少ともなり深めることができた気がしています。

とはいえ、教養には大きな差があるものの、飯を食べてウンコをする人間としてはさほどに差がないような気もします。

平安時代への尽きない興味が持てたことのきっかけとなったのが「枕草子」となりました。

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