天皇家と古代史十大事件

倉本一宏という人が中公新書から出している「藤原氏」という本を読みました。古代史といえば概ね「大化の改新」が一番ビッグな事件で、ここが藤原氏の起点となるわけです。

鎌足の息子の不比等が4人の息子に盤石な体制を作らせ、中でも北家が主流になっていきます。その起点はおそらく冬嗣なのだと思いますが、良房・基経につながるあたりでは天皇も藤原の後ろ盾がなければやっていけない、あるいは、藤原一族にとって理にかなわなければ天皇すらも変えられてしまうようなことになります。

大鏡」では、天皇は文徳天皇からで、藤原氏は冬嗣からになりますが、天皇はさることながら藤原兼家-道長につながるあたりが濃厚な書き物になっています。

中公新書の「藤原氏」では2章の終わりに種継の暗殺が軽く触れられていますが、もう少し詳しく知りたいと思って検索したら見つかったのが「天皇家と古代史十大事件」でした。

民間の歴史研究家とのことであり、なかなか主観入り交りの意見開陳には閉口する部分も少なからずありますが、こちらも専門に研究しているわけではないので、wikiで調べたりしながら参考にしました。

歴史は証拠が不可欠であり、古代となると、そうそう潤沢な証拠があるわけではないので学術的に研究している人にとっては大変なことと思われますが、市井で研究している人にとってはいかようにでも解釈できることでもあり、ロマン多き時代なのだと思います。

章立ては、

第1章 大津皇子謀反事件
第2章 珂瑠皇子立太子
第3章 石川刀子娘貶黜事件
第4章 長屋王の変
第5章 大仏殿造立事件
第6章 橘奈良麻呂の変
第7章 宇佐八幡宮神託事件
第8章 藤原種継暗殺事件と平安宮遷都
第9章 藤原氏の他氏排斥事件
第10章 院政の始まり・源平合戦

結論

古代、特に藤原氏に興味があるとかある程度の知識があるとかでなければ、読んでも面白くはないかもしれません。著者は市井の研究者ですから、学術的な観点からの著述ではありません。

だからというわけではないのですが、余談も偏見も書ける自由さがあります。それを楽しみたい人向きだと思います。

概要

特に古代史に興味でもなければ、およそ馴染みのある人名がないかもしれません。鎌足が助力をして天皇になったのが天智天皇です。彼の息子の大友皇子を大海人皇子が滅ぼし天武天皇となります。持統天皇は天智天皇の娘で、天武天皇の后です。

鎌足がなぜ、中大兄皇子を支援したのかというと、著者の推理では鎌足は渡来系であり、天智天皇を支援することで百済救済に巻き込めると考えたからだとしています。事実、白村江の戦いにでかけて、痛い目にあっています。

蘇我系は大海人皇子(天武天皇)を支援することで政権に影響力をもつことができました。

大津皇子は天武天皇の皇子で持統天皇とは血縁ではありませんでした。天智天皇は当然のことですが反蘇我です。入鹿・蝦夷を滅ぼしているわけです。では、持統天皇はどうしたかというと、不比等と組んで大津皇子を葬ったというのが著者の解釈です。

そのことで、天武天皇-大津皇子に連なる蘇我系を排斥することができたからです。

持統天皇の息子である草壁皇子の后に天智天皇の娘で持統天皇の妹である元明天皇がいます。この元明天皇の乳母だったとされるのが県犬養三千代です。

この県犬養三千代は美努王の后だったのですが離縁したのかはよくわかりませんが、不比等の嫁になり生まれたのが光明子で、聖武天皇の后になります。

元明天皇と草壁皇子との間に生まれたのが珂瑠皇子(文武天皇)でしたが、そこで邪魔になったのが石川刀子娘と、その皇子でした。というのは文武天皇には不比等の長女である藤原宮子が后で、その間に首皇子(聖武天皇)がいたのですが后の家系では石川刀子娘のほうが上だったので、排除しなければ首皇子が天皇なれないわけです。

謀略で石川刀子娘と皇子を抹殺します。

藤原氏の繁栄の影には似たようなことがいくつかありましたし、光明子と聖武天皇の間に生まれた孝謙天皇(称徳天皇)には弓削道鏡との醜聞があります。その称徳天皇が崩御すると天武系には男子がいなかった。称徳天皇と異母姉妹であった井上内親王は白壁王と結婚し男子が生まれてしまう。

そこで藤原一族は井上内親王と皇子をお得意の謀略で抹殺し、藤原一族は天智系の白壁王(天智天皇の孫)を光仁天皇(凡庸・暗愚を装って藤原一族からの難を逃れた)とした。白壁王は60歳を過ぎて天皇(今までの天皇で最高齢の即位)となり73歳で崩御すると、山辺親王が即位して桓武天皇となる。

本来であれば母の出が渡来系であった山部親王が天皇になることはあり得ない話でしたが、著者は藤原一族が百済系であるとすることで、母が百済系である山部親王が天皇になることは彼らの目的に合致しているとしています。

藤原種継の暗殺には、桓武天皇の弟の早良親王が首謀者だとして幽閉し暗殺している。早良親王は東大寺の高僧でバックには奈良東大寺の勢力があった。

種継のバックには藤原式家と秦氏があり、長岡京の建設を種継に任せたのは秦氏の協力が前提であったが藤原南家・北家にとっては種継を暗殺し、早良親王も排除できれば一気に巻き返せるという計算であった。

ここからも藤原一族による他氏排斥が続くが、「大鏡」にも書かれているように藤原氏は道長において隆盛の頂点を極めることになり、そこから坂を転げだすことになるのにも、何がしらかの必然があったのでしょう。

イラストはpixabayから

象徴的なことは道長と仲の悪かった三条天皇の系列から白河天皇が誕生し、これによって藤原氏は権力の中枢から除外され院政が敷かれる事となると同時に、源平という、元は皇族だった一族の末裔が武士となり時代が大きく変わっていくことで鎌倉時代へとつながっていくことになるわけです。

道長により嫌がらせを受けていたのが一条天皇の妃である藤原定子。彼女は道長の兄である道隆の長女ですが、その定子についた女官が清少納言で、同じく一条天皇の后となった藤原彰子は道長の長女で、お付きの女官が紫式部ということで、彼ら彼女らの時代が文学として今に伝わっています。

枕草子」と「源氏物語」は、日本がある限りは残される文学の金字塔であることに間違いはなく、日本を日本たらしめている最高峰の文学が、このような時代背景から生まれているわけです。

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