2020年オリンピック開会式で没案になったAKIRAの考察

もう何年もまえに1回「AKIRA」を見ましたが、最後のほうで人間が膨れて怪獣にようになる。ジブリのアニメで最後にでかいロボットが崩壊していく感じをも髣髴とさせるような展開で、その部分だけ強く印象に残っていて「あり得ない話」として片付けていました。

金田が鉄雄を庇うところや音楽は好きでしたけど、最後のほうがストーリーとして辻褄を合わせられていない感じは否めませんでした。

漫画は1982年から連載でアニメは1988年公開だそうです。

ところが、今回、2020年オリンピックの開催式で「mikiko」という演出家が「AKIRA」のオートバイが駆け抜けるというような演出案だったようで、嘘か本当かは不明ですが「IOC」も絶賛だったという話。週刊文春でその辺のことを特集しているというので駅の売店まで出かけて行って400円で買ってきました。

文春では、あまり印象に残る話でもなく、森喜朗さんやら小池百合子さんやらが、「○○を出せ」のような政治家介入があり、mikikoが困惑していたというような話でした。海老蔵の「暫(しばらく)」は森さんのたっての願いだったようです。

政治家と言うのはお金に汚いだけでなく、こういうイベントなどで口利きをするのも重要な役割ととらえているようです。ま、「発言権」ですね。違う言い方をするなら「影響力の行使」。権力を持つとこういうことをしたがるのが人間のサガなのでしょうか、あるいは、こういうことをしたい人間だから権力を志向するということなのかもしれませんね。

AKIRA」で始めるなら、まず、「レトロフューチャー」で統一すべきで、「破壊」を「創造」に変えるストーリーが必要になります。ドローンを使ったあの手のこけおどしはつまらないし、ちょっともレトロな感じがないですよね。

むしろ、初期の「ブレードランナー」のように「ワカモト」とか書いた気球を上空を通過させるなんてのも面白かったかも。

第三次世界大戦」が起きて「東京が廃墟」になりネオ東京で暴走族が暴れ、それを軍隊が鎮圧する。隈研吾先生の国立競技場の地下にAKIRAが冷凍されていて、さらに凄惨な大爆発を起こし津波のような都市破壊の場面があるなんてアニメの主人公の乗る真っ赤なオートバイで開幕するなんてのは、政治家先生と官僚にとっては許容しがたい内容だっただろうと思います。

一般的な解釈とは違うのかもしれませんが「AKIRA」という存在は「絶対的な善」の権化のようなものと受け止めました。法の究極にあるものは「」だという解釈がありますが、同時に「権力」であるという答えもあります。今の中国の法の究極には「権力」が鎮座しています。

日本も似たようなもので、決裁文書から「昭恵」の名前を消すようなことをして自責の念から死者まで出しているのに、指示した官僚は誰一人逮捕されていないということは、法の究極には「」ではなく「権力」があるということの証左です。公文書の扱いがおろそかであるということは「民主主義」こっかではないということでもあります。

2020年にオリンピックが開催されるはずの国立競技場の地下に「AKIRA」を解体して冷凍保存してあるのを、それをどうして、どうなったのかは不明ですが、鉄雄は何かに飲み込まれていく。鉄雄の彼女も飲み込まれる。

このあたりのリアリティがどうしても解釈できないのですが、舞台が「2020年」のオリンピックであり、国立競技場が廃墟であって、その下に「究極の力」が埋め込まれている。それが鉄雄によって覚醒してくるということが暗示するものは何か? と言うことになります。

究極の力」とは、「スポーツの祭典」の陰に潜んでいる膨れ上がった利権の亡者なのか?「AKIRA」とは利権の権化に対抗しようとする「正義」なのだけれど機は熟していない。鉄雄は飲み込まれてしまったけれど、金田は取り込まれなかった。

ここに「未来」が示唆されているではないかというのが小生の解釈です。

もう始まっているからね」「僕は鉄雄」でアニメは終わります。さて、なにが始まっていて、誰が鉄雄で、その鉄雄が何を意味していて、何が始まろうとしているのか。

非常事態宣言か? 総選挙か?

いまは、2021年8月。暑い暑い、コロナ真っ盛りの夏。

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